もっと詳しい元伊勢内宮 皇大神社
- タクミ ジョウジマ
- 2023年11月30日
- 読了時間: 1分
更新日:2024年2月20日
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御若叡の森の御庭・御製碑
昭和天皇の自然環境保護におよせになる御心を詠まれた御製を謹刻したもの。篤志家により、平成8年天皇御誕生日の佳節に、太古の森が保全されているこの御庭に奉飾されました。

さざれ石・君が代碑
昭和天皇御在位60年を記念してこの御庭ができました。君が代の歌の中にある「さざれ石」という珍しい巖が奉飾されています。
さざれ石の由来
「君が代」の歌に唱われた「さざれ石」は、石灰岩質であり、成長する奇岩です。大小の石を凝集して巨岩をつくっていきます。そのめでたさを托した名歌が少なくありません。「君が代」の歌はもと、惟喬親王にささげた「わが君は」の歌を元歌としてできたといわれており、『古今和歌集』(延喜5年)に収められています。このさざれ石は、岐阜県揖斐の山中から産出したものです。
ヘソ塚と和泉式部の歌塚
ヘソ塚は、昔へその緒をおさめ、長寿と健康を祈りました。塚の上には椎の大木が聳えています。式部の夫は丹後守。娘は小式部といい、「大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立」というあの有名な歌を詠みました。

日出の奇麻知(くしまち)
冬至の日に太陽が昇る方向、東北東は古代人にとって最も神秘な太陽崇敬の線とされています。丹後の与謝の石鳥居から東南東を望むと、大江山千丈ヶ嶽(与謝の大山)、元伊勢内宮(吉佐宮)、伊勢両宮とは一直線で貫かれています。
古代、与謝の里人が、冬至の日に太陽が昇るのを拝した神秘な線です。冬至は最も日が短く、太陽の力が一番弱い日です。この日を境に少しずつ日が長くなる。太陽の復活現象が起こる日です。古代人はこの日の太陽の昇る方向を神秘視しました。

京極高国奉建立納札

当社には60年毎の式年造替の定めがありました。歴代宮津藩主の崇敬が厚く、明暦2年(1656)の社殿造営にあたり、京極高国が時の将軍徳川家綱の疱瘡平癒の祈願のため修築費用を寄進したことを記した棟札が残っています。また元禄14年(1701)には藩主奥平氏が社領を寄進、以後、永井氏・阿部氏の時代にも引き継がれています。写真の棟札は高さ98㎝です。
狛犬
笏谷石(しゃくだにいし)で作られた、ともに高さ30㎝に満たない小狛犬ですが、「元和7年(1621)7月吉日 越前國三國新保村 助左衛門寄進」、「安政三辰(1856)冬願主申年女 同江戸佐山氏」の銘があり、古くから越前や江戸という遠隔の衆庶から崇敬を集めていたことがうかがえます。
笏谷石というのは、福井市の足羽山で採掘される石材で、約1600万年前の火山活動で降りつもった灰が固まってできた火山礫凝灰岩です。

元伊勢三社(元伊勢外宮豊受大神社・天岩戸神社)
元伊勢三社とは
福知山市大江町の皇大神社(元伊勢内宮)と豊受大神社(元伊勢外宮)は、伊勢神宮の元宮といわれ、天岩戸神社とともに元伊勢三社として知られています。いずれも古来の深い森を有し永い間信仰の対象とされてきました。
平成19年、元伊勢三社の境内一帯は、丹後天橋立大江山国定公園に指定されました。
元伊勢外宮豊受大神社
ご祭神は豊受大神で、衣食住を始め広く産業の守護神とされています。この地に天照大神がご鎮座されたとき、豊受大神を合わせお祀りされたのが創始と伝えられています。4年後、天照大神はさらに聖地を求め諸所を経て、現在の伊勢神宮にご鎮座されました。そして雄略天皇の22年「但波の比沼真名井に坐せる豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」との天照大神のお告げがあり、現在の伊勢外宮の地にお祀りされたと伝えられています。こうしたことから一般的には元伊勢外宮と呼ばれています。9月第1日曜日には八朔祭礼があり、大鳥毛練り込み奴道中が繰り広げられます。大鳥毛を投げ渡しする勇壮な行事です。
天岩戸神社
日室岳の下を流れる宮川渓流に、秘境天岩戸神社があり、岩壁にはりつくように鎮座しています。天照皇大神がお隠れになったという伝説の地。天降った神々が座したと伝えられる巨大な岩「御座石」、神楽を舞ったと伝えられる岩「神楽石」など巨岩とうっそうと茂る森が、神秘的な雰囲気を感じさせます。
この少し下流には神様が湯あみをしたという産釜・産だらいという大きな甌穴(水の流れが小石を転がしてできた岩のくぼみ)があり、日照りの年でも水が湧き出てくると言い伝えられています。宗教法人大本(おほもと)教の開祖出口なお、王仁三郎は、当地を元伊勢として尊崇していたことが知られています。天岩戸神社にある産釜・産だらいの岩穴の霊水「生粋の水晶のお水」を汲み取り、これをご神水とされました。
元伊勢小唄
昭和初年につくられ、地域の青年団や処女会、小学校で歌われ、運動会等には踊られていました。作詞は、当時の宮司であった小野常吉氏です。 長く途絶えていましたが、平成7年、地元門前町「内宮」で伝統芸能保存会を組織し、平成23年まで皇大神社の例祭で奉納されてきました。歌詞は10番まであります。
下の写真は、元伊勢小唄の歌詞が印刷されている戦前の絵葉書です。


西国巡礼にみる元伊勢
江戸時代は、おかげ参りや西国33所巡礼が盛んで、また、当地が参勤交代の通路になったため、歴代の宮津藩主の尊崇を受けるなど、参拝者も広がりをみせました。舞鶴市の糸井文庫には、当時の西国巡礼の旅日記が十数冊所蔵されています。その中でも大阪の旅人が文政3年(1820)に書き残した『西国巡礼略打道中記』は、当時の様子が、彩色の絵入りで詳しく記されています。あとから旅をされる方を意識して書かれており、当時の観光案内書ともいえるものです。(上記画像は、『西国巡礼略打道中記』(舞鶴市所蔵)の一部です。)

鳥瞰図にみる元伊勢
鳥瞰図とは、大空高く舞い上がった鳥が地上を見下ろしたら、こんなふうに見えるだろうというように書かれた地図です。「大正の広重」とも評された京都生まれの鳥瞰図作家「吉田初三郎」が描いた、左右の端をU字に曲げ大胆なデフォルメを施した独特の絵図は、旅行パンフレットに取り入れられ多数出版されました。下の3点(国際日本文化研究センターのデータベース)はいずれも大正13年の制作です。当時の名所案内もあります。
八朔祭練り込み
稲をはじめとする五穀豊穣を祈願する祭りです。地元では笹ばやしの伴奏で大鳥毛を受け渡しするなど勇壮練り込む大名行列が行われます。古文書によると「明暦4年(1658)の夏、大旱魃であり、憂慮した宮津藩は、検地奉行を遣わし、河守郷13か村の村役人ともども元伊勢へ祈願、岩戸で雨乞いをした。すると大蛇が現れ、役人たちを一呑みにしようとしたので、笹ばやしと練込みをしてお祭りするからと嘆願した。
大蛇はなおそのままであったので、毎年8月の朔日に13か村こぞって祭礼をすると約束したところ大蛇は姿を消し、待望の雨が降った」といい、この故事によって八朔が始まったといわれます。戦前までは、村々から元伊勢外宮・内宮に練り込みや大名行列が出る壮大な祭りでした。戦後は途絶えていましたが、多くの村で復活し、元伊勢三社のある河守上地区では9月第1日曜日に、それ以外の村では10月の秋祭り行われています。ただ近年、高齢化や人口減により地元内宮では継続が難しくなってきました。


榎のご神木
昔、当社には、神霊の憑代として崇められた大榎があったといわれています。京都あたりの人々は乾(西北)の庭に榎を植えて福榎と呼んで珍重されていたそうです。乾の方向には元伊勢があり、その大榎にあやかり家門繁栄を願ったといわれます。当社では61年目のご改造毎に神殿の御立柱は榎と定められ、今も榎が用いられています。
龍神の磐座

御門神社
奇岩窓神(くしいわまどのかみ)・豊岩窓神(とよいわまどのかみ)を祭る。この神様は、天岩戸を守る御門の神で、四方四隅、上下、八方十方からくる悪邪の厄を防ぎ祓い却け、しかも、出入りする者のあやまちを直してしまわれる厄神さんの本宗です。

小宮
80余の小宮が、ご本殿を中心に、前後左右を囲む。皇大神ゆかりの摂社の他、全国一宮など有験の社を集め、八方詣(八方除参り、八方開き参りともいう)などの信仰があります。かつて、節分の夜には裸参りの風習もあり、多くの方が参拝し、一つ一つの小宮にお参りし四方八方の厄を取り除き新しい年(立春)を迎えました。現在でも節分や年末年始など多くの方が八方詣をされます。

